黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

吉例顔見世大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

中村梅玉の部屋子であった中村梅丸が、梅玉の養子となり、あらたに初代中村莟玉を名乗ることが見どころの夜の部。

 

まずはその莟玉の披露狂言である『菊畑』から。

梅玉の智恵内はかならずしも本来のニンではないだろうが、その持ち味であるなんとも言えないやわらかさを生かしてさすがにうまい。浅葱幕を振り落としてあらわれた髭を抜く姿からして、なんともおおらかで古風である。

莟玉の虎蔵は、花道の出からそのさわやかな美しさが目をひく。また牛若丸だと正体をあらわし、みずからを杖で打つことをためらった智恵内をとがめる場面は、意外にもその堂々とした姿に今後の二枚目役への可能性を感じさせた。

鬼一を演じるのは初役の芝翫。登場する足のはこび、花道七三で足をとめて傍らの菊を見る一連の手順、いずれもさらさらとして余裕がないように見える。総白髪の座頭の役。所作にもセリフにももうひとつおおきさがあればと思われた。鴈治郎の笠原湛海はセリフが明瞭で好感がもてるが、やや役として軽すぎる。

この『菊畑』のような、ドラマとしてはさしたる盛りあがりもなく、様式的な美を楽しむ作品が今後も生き残っていくためには、やはりそれにふさわしい役者がそろうことが不可欠だろう。台本との距離を埋めようと首をもたげる「現代的な演技」が、その絵面に入り込む余地があまりにもないからである。

 

『連獅子』は幸四郎・染五郎の親子で。毎年『連獅子』ばかりを観ているように思うのは気のせいか。

 

『市松小僧の女』は池波正太郎が歌舞伎のために書き下ろした作品で、昭和五十二年の歌舞伎座での初演以来四十二年ぶりの再演。

なぜこれほどの作品が長いあいだ忘れられていたのかと不思議に思われるほど、作品としてよくできている。たしかに他愛のない話といえばそれまでなのだが、そのなかに理屈ではない人間のこころの機微がさりげなくえがかれており、ピタリとはまる配役を得たこともあってよい再演である。

ただ、いささか唐突に紋切り型のセリフが飛び出すことも少なくない。たとえばお千代が家出をして隠れ住む農家の縁側でふともらす「なんで男に生まれなかったんだろうねぇ」というつぶやき。もっていきかたによってはひじょうに効果的なはずのこのセリフも、そこにいたる流れが整理されていないのでもったいない。また、やめると誓ったはずの悪癖になんども手を染めてしまう又吉を、お千代が許すラストシーンもなんとも弱い。又吉がこののち過ちを繰り返さないという保証はなにもなく、お千代が許してしまうことにも、同心永井が笑って見逃してしまうことにも、それでいいのかと疑問が残る。結局これはなんども過ちをおかす男とそれを許してしまう女という人間の性をあたたかくえがいたラストシーンだと思われるが、そう見えるためにはひと工夫が必要だ。いずれも、演出を練り直してより磨き上げられた再演が観たい。

お千代は時蔵。『毛谷村』のお園のような役を得意とする時蔵にはぴったり。拵えとともにしだいに男勝りから世話女房に変化していくその過程を面白く自然に見せている。又吉を演じる鴈治郎は、そのもって生まれた愛嬌を存分に生かしてはまり役。團蔵、芝翫、萬太郎、梅枝、秀調、秀太郎と、こういった地の芝居のうまい役者がそろっているが、なかでも大番頭伊兵衛を演じた齋入のうまさは特筆もの。こういった達人がわきをかためると、芝居のクオリティかぐっと高まる。

 

 

 

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