黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

第三部のはじめは中村吉右衛門が石川五右衛門を演じる『楼門五三桐』である。

秋以降、手術をするなど本調子ではない吉右衛門だが、本来のベストコンディションにはまだまだ戻っていないようだ。しかしそれでも五右衛門にもとめられるおおきさ、手強さといったところが声に出ていてさすが。はやく身体を万全にして、あの名調子を聞かせてもらいたい。

真柴久吉は松本幸四郎。わずかな出番だが、そのさわやかな姿といい、ていねいなセリフといい、なかなかの見もの。ただし吉右衛門のおおらかな五右衛門を向こうにまわしては、もうすこし柔らかさがあればといったところ。

 

歌舞伎の演目として『隅田川』が東京で上演されるのは、じつに16年ぶり。歌右衛門、雀右衛門、そして坂田藤十郎と引き継がれたこの作品は、今月演じている坂東玉三郎自身も16年前に京都南座で(しかも清元ではなく長唄で)とりあげて以来で、東京でははじめてではないだろうか。

観世元雅の能があまりに完成度が高いこともあるのだが、歌舞伎演目としての『隅田川』については、これまであまり肯定的にとらえることができなかった。それにはいくつかの理由がある。ひとつは、いまの歌舞伎座をはじめとする歌舞伎向けのあまりに横長のだだっ広い舞台においては、その凝縮したドラマが白けがちになってしまうこと。もうひとつは、ともすれば『二人椀久』のような大衆芸能的な表面的な舞踊劇になりかねないこと。じっさい、雀右衛門と富十郎、藤十郎と梅玉といった近年の舞台を観ても、どこか物足りなさを感じたものだ。しかし結論から言えば、今月の玉三郎と鴈治郎の舞台を観て、これまでとはまったくことなる感銘と感動を受けた。

緞帳が上がるとまず気がつくのは、清元が上手ではなく、舞台の奥やや下手寄りに配置されていることだ。その効果は思う以上におおきく、上手下手の舞台端がうす暗い客席とシームレスにつながり、じっさいに見えている以上にアクティングスペースが狭まっているように感じられた。また舞台奥には紗幕が設けられ、前述の清元がそのむこうがわに配されることによって奥行きが出て、これまた横長な歌舞伎座の舞台の欠点がほとんど気にならなくなった。また、能とことなり具体的に「川」がそこにある(舟が横滑りすることで物理的に存在する)ことが歌舞伎の『隅田川』の特徴だが、作品の内容上その川とは「彼岸」と「此岸」と境界としての川にほかならない。それが紗幕によってぼかされた奥行きを得たという意味は、きわめて重要である。

玉三郎の班女の前が花道から笠を(背に負わずに)かぶってしずかに進みでる。この笠(長身の玉三郎にはやや小さく見えるのだが)をかぶった姿が能の『隅田川』を思わせ、たちまち今回の舞台の方向性がはっきりとわかる。この独特な班女の前は、日本舞踊的な身体性をできるだけ放棄し、オリジナルの能が持っている抑制されたどちらかといえば直線的な動きを意識しているようだ。舟長からわが子・梅若丸の最後を聞かされる場面においても、じつに最小限の所作のみにとどめられ、おそらく船頭のセリフがそこに聞こえていなければ、なにを考えなにを思っているのか見るものにはなにもわからないだろう。無駄な表現をいっさい捨て、まとうべき言葉の入れ物になることに徹しているその方法論は、まさに能のそれである。

この能的身体ともいうべき班女の前が唯一リアルなドラマを演じるのは、亡き子の声をまぼろしに聞き、花道までその幻想を追って狂い歩く場面だ。それまでの抑制があるからこそ、そのリアリティが観客にこれでもかと迫る。幕切れ、梅若丸の墓の前で我にかえり、抜け殻のようになって手を静かに合わせるその姿は、これまでのどの『隅田川』にもない感動をもたらした。

舟長は中村鴈治郎。格のあるていねいなセリフとこちらも踊りにならない抑制された所作が秀逸。それでいてリアルな芝居はこびを見せるので「ワキ」としての立ち位置を確保しているところがまたよい。わが子の幻影を追って狂態を見せる班女の前を見て、ふっと目線をそらすしぐさがじつに自然で効果的。

忘れてはならないのが大道具。前述のように紗幕の使い方も大成功だが、後場(梅若丸の墓所)への転換の巧みさも秀逸。また、いやらしくならない範囲で自然な仕事をした照明も。

能の『隅田川』とはまったくちがったかたちで、現代の演劇として価値あるものによみがえらせた玉三郎の功績ははかりしれない。そして、この数年のあいだ本格的な歌舞伎の舞台に出ることが少なかった玉三郎が、こうして見ごたえのある演目でつづけざまに歌舞伎座に出演することを喜ばずにはいられない。第二部で奇跡的な名演を見せた仁左衛門と組んで、来月は『桜姫東文章』をひさびさに上演するというが、このコロナウイルスの影響で停滞する業界にはうれしいかぎりである。

 

 

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