黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

七月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

歌舞伎座第三部は『鳴神不動北山櫻』の三年ぶりの上演。そして、團十郎襲名が延期になった市川海老蔵の、二年ぶりの歌舞伎座出演でもある。その初日を観る。

海老蔵が現在のかたちにまとめあげて上演してから七回目の上演となるが、前回までは四時間を要する本格的な通し上演であったのにたいして、今回は新型コロナウイルス対策ということで二時間強にまとめられた。具体的には「大内」「木ノ島明神」といった場がカットされ、もともと独立した作品としても上演頻度の高い『毛抜』『鳴神』に大枠をつけてつなげたという印象になっている。準備期間もなかっただろうからおおくは望めないのは承知のうえで、二時間の作品としてもうすこし密度ある構成が考えられてもよかったのではないだろうかというところも。

しかしながら、やはりみどころはいくつもあった。

 

まずは海老蔵自身による口上につづいて、小野春風(大谷廣松)が腰元の小磯(中村芝のぶ)に小野家の家宝である「小町の短冊」を預けるというだけのやりとりが花道であるが、導入として筋をわかりやすくするというよりも、海老蔵の拵えの時間稼ぎという印象がつよく、もうひと工夫あってもよかったのではないか。そもそもここまでカットされるのであれば、もはや「小町の短冊」がなんであろうと本筋にはほとんど影響がなく、そういう意味ではヒッチコックにおける「マクガフィン」のようなものだ。この短冊については海老蔵が口上でもふれているのだから、このみじかいやりとりを見せることが観客にとって親切だとは思えない。

 

「深草山」の場では海老蔵演じる五役のうち早雲王子と安倍清行が登場する。早雲王子は国崩しとしての古怪さやスケールが不足し、安倍清行は特殊なつくりかたが浮いて見える。また段取りがかならずしも鮮やかでないために、早変わりの面白さもいまひとつ。前後関係も希薄なうちにあわただしく終わってしまうこの幕は、今回のカット上演の被害をもっとも受けた場面だろう。

しかしつづく「春道館」の場はこれまで同様にほぼ『毛抜』をそのまま上演していて、ようやく落ち着いて芝居を堪能できる。

この場ではまずは海老蔵の粂寺弾正が面白い。おおらかで古典的な十二代目團十郎の粂寺弾正も傑作だったが、海老蔵の弾正は色気あり、悪戯っ気あり、またこの場をおさめる智勇兼ねそなえた落ち着きもあり、じつにはまり役。今回はとくに芝居が自在で余裕があり、なかなかの見もの。毛抜や小柄を見下ろしてのいくつもの見得はたっぷりとしていてよいが、裏見得となる最後は裏向きになる前の天井を見上げるイキが流れてしまい、やや意味がわかりにくい。

この「春道館」が芝居として見応えあるのは、やはり秀太郎に市川門之助、巻絹に中村雀右衛門と、出番の限られる脇の役にベテランが出ているからだろう。門之助は芸で若衆の色気と柔らかさをみせ、雀右衛門も「ビビビビビ」とさりげなくまとめるうまさ。地味ながらふたりともさすが。

 

休憩をはさんで「鳴神」となる。これまた白雲・黒雲に市川斉入、片岡市蔵というベテランを配して豪華だが、前半のふたりのやりとりがすべてカットされているのでもったいない。ここがないためにのちに登場する「般若湯」なども脈略もなく唐突になってしまう。

雲の絶間姫は中村児太郎だが、この絶間姫が今回の『鳴神不動北山櫻』全体でもっとも見応えある素晴らしいものだった。やや気の毒なほどしどころもない花道の登場はあっさり。七三にとどまっての鳴神らとのやりとりは低調で、「ゆかしきは良人、なつかしきは夫(つま)」や「おもしろいことでござんした」などは色気も抒情も希薄。しかし本舞台へ出てからの物語の面白さには、なかなか引き込まれる。剃髪の準備のために白雲・黒雲が花道を入っていくその後姿を見送る様子が抜群にうまく、ここからが絶間姫にとっての本番なのだという覚悟が見える。「ああ、痛っ」の仕掛けじゅうぶんでありながらリアルな言い方には、鳴神ならずともおもわずハッとさせられる。鳴神に背中をさすらせ、それが次第に胸へ、下腹部へと誘い込んでいく一連の過程がきわめて巧妙で、この場でこれほどまでにサスペンスを感じさせられることもめずらしい。なかでも左の袂の使い方が絶妙。「なるわいな」と開き直ってからのコミカルなやりとりも間がよく、嫌味なく笑いを呼んでいる。近年おおきな役を経験しはじめている児太郎は、その抜群の演劇的センスがその持ち味。歌舞伎だからと見過ごされがちな芝居の隙間を、ちょっとした工夫で見事に埋めてみせることのできる役者である。第三部はこの絶間姫を見るだけでも価値があると思われた。

海老蔵の鳴神上人はこれまでなんども演じてきた役。安定しているが、児太郎の絶間姫の芝居とくらべると、やや表面的に見えてしまう。また、酒に酔っていく過程などはじつにリアルだが、この演目のこの役でそのリアルさは本当に必要なのだろうか。ぶっかえってからの荒事の立ち回りは豪快、花道を飛び六法で入るまで、さすが海老蔵という盛りあがり。

ちなみに、酔いつぶれた鳴神は檀上へあがらず本舞台中央で寝入ってしまう。この演出それ自体は先人にもあったものだ。しかし絶間姫が必死にしめ縄を切るべく覚悟を決め奮闘しているあいだ、舞台上の鳴神の存在はじつは邪魔であり結果として絶間姫は芝居のうえで損をしている。簾をおろした檀上へいったん鳴神と絶間姫が入り姿を隠すということそのものが、ドラマとしてやはり必要なのではないだろうか。酔った鳴神と絶間姫がそのなかでなにをしていたか。絶間姫は貞操をまもったのか、それとも勅命のためにそこまで犠牲にしたのか。明示されなくてもその可能性が重なり合っていることで、はじめて「鳴神さま、お許しなされてくださりませ」というセリフも生き、絶間姫のドラマにも幅が出るだろうからである。

次の幕へのつなぎとして前回同様に百姓たちによる「事の顛末」の説明があり、彼らが花道でしばらく祝いの踊りを見せる。もちろん海老蔵の早雲王子への拵え替えの時間稼ぎが必要だということは重々承知のうえで、やはりちがう工夫が必要だと感じざるを得ない。なぜならば、次の「朱雀門」の場も早雲王子と四天たちとの捕物であり、いわば集団芸がつづいてしまうことの違和感がぬぐいきれないからである。それこそ白雲・黒雲のふたりが登場するなどの思い切ったリライトがあってもよいかもしれない。

 

「朱雀門」の場はじつに爽快な立ち回りが面白く、見応えじゅうぶん。これですっきりと終わればよいのだが、五役目を演じる「不動明王降臨」の場を用意するために数分にわたって轟く鳴り物を聞きながら待たされるのが残念。待たされてもよいが、それなら観るものの想像のはるか上を行くような、それこそ大日如来の化身たる不動明王のスケールのおおきさを見せつけるラストが用意されるべきだろう。この「不動」は海老蔵歌舞伎において、まだ未完成である。

 

 

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