黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

四月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

第三部は、片岡仁左衛門・坂東玉三郎のふたりによって『桜姫東文章』が上演された。この組み合わせでは数十年ぶりとなり、いわゆる「孝玉コンビ」として伝説となった舞台ふたたびということで、初日があけるまえから話題になっていた。ただし今月は発端の「稚児ヶ淵」から「三囲土手」までの前半で、後半は再来月におあずけ。時間の関係とはいえ商売上手ではある。

 

「稚児ヶ淵」の幕のあく前に、定式幕前で役人たちが清玄と白菊丸の失踪についてひととおりのやりとりをかわす。そのセリフのとおりが悪いこともあり、よくつかわれる手とはいえ浮いている。仁左衛門の清玄と玉三郎の白菊丸は美しくその出端から目をうばわれる。

「新清水」の場になり、桜姫が登場。玉三郎の赤姫はこの年齢にもかかわらず違和感のない美しさ。歌舞伎の女形では、たとえば先代の中村雀右衛門のように何歳になっても赤姫が似合うニンの役者であればめずらしくもないことだろう。しかし玉三郎は本来は八重垣姫より濡衣が、雛鳥より完高が似合う役者である。それでいてこの美しさはさすがというべきか。それどころか、やや見た目も声もやわらかさを得たいまのほうが古風に見える。仁左衛門の清玄は、徳を積んだ高僧たる堂々とした雰囲気がよく、これがあとに効いてくる。二役権助にかわってみせるが、この場はしどころもなくひととおり。

「草庵」の場になり、いよいよ前半のみどころ。このふたりのために書き下ろされたのではないかというほど、艶めかしさあふれるふたりの濃密な芝居がよい。とくに帯をといた権助がはだけた着物を引きずりながら桜姫を見下ろすその表情は、ぞくっとするほど悪の色気にみちている。この場では中村歌六の残月が三枚目ぶりを技術でみせてうまい。

 

しかし、全体的に複雑な筋立てのわりにはさらさらとした台本で、あまりに表層的で商業演劇めいている。この人間国宝ふたりがいまさらながらとりあげなくてもよいのでは、いやこのふたりだからこそ成立している作品なのかと考えてしまう。前述の歌六や悪五郎の中村鴈治郎もたしかによいのだが、かろうじて歌舞伎の芝居らしいと言えるのは錦之助の演じる粟津七郎くらいなのだ。だが今回の上演のほんとうのみどころはじつはこのあとにあった。

まずはつづく「稲瀬川」の場である。清玄がそれまでとはがらりと態度をかえ桜姫に夫婦となるようにせまるが、その変り様がじつにうまい。ひとつには前の場までの高潔な清玄の芝居とのみごとな落差があるからだろう。また、けっして桜姫の色香にまよったわけではなく、みずからが死なせてしまった白菊丸と目の前の桜姫がかさなり、それによって自分の意思とは関係なく桜姫をもとめようとする狂気がそこにあることを、見るものに感じさせるからでもあるだろう。その唐突な行動は、いまの清玄の意思とは無関係に能動的にではなくおこるものなのだという、精神分析的にも面白い瞬間。それは、過去の行いが現在の運命をうごかしてしまうという、この南北作品の大事な要素がうきあがる瞬間でもある。

そして圧巻なのは「三囲土手」。花道七三の桜姫と土手のうえの清玄との、なんともいえない間とテンポの応酬がじつにみごとなものであり、ふたりの急転した境遇とそれへのなげきが、緊張感あるなかで織りあげられていく。そして、ふたりの芝居を見ているだけで、小雨の降り続くその場の空気が伝わってくるようだ。この場面は衣装の色合い、照明などもうまく溶け合っており、ようやく南北の名作ふさわしい世界をかたちづくって幕となった。これなら後半もますます楽しみである。

 

 

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