黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

エマニュエル・パユ SOLO Vol.3 (東京オペラシティコンサートホール)

 

現代最高のフルーティストのひとりであるエマニュエル・パユのソロリサイタル。テレマンの無伴奏曲と現代曲を交互に演奏する、独特かつ刺激的なシリーズの続編。18世紀なかばにつくられた前古典期のテレマンの音楽と、20世紀後半から現代にいたるいわゆる前衛的な音楽とが、想像を超えてひとつの世界をつくりあげていく休憩なしの75分間のステージである。

テレマン:無伴奏フルートのための幻想曲第3番 ロ短調
ブーレーズ:メモリアル(1985)
テレマン:無伴奏フルートのための幻想曲第4番 変ロ長調
モンタルベッティ:Memento Emmanuaile(2019)
テレマン:無伴奏フルートのための幻想曲第8番 ホ短調
マヌリ:なおのうごめき(2020)
テレマン:無伴奏フルートのための幻想曲第9番 ホ長調
デスプラ:エアラインズ(2018)
テレマン:無伴奏フルートのための幻想曲第11番 ト長調
ジャレル:点は、万物の始原であり…(2020)
テレマン:無伴奏フルートのための幻想曲第12番 ト短調

パユの演奏スタイルは、テレマンにおいてもブーレーズ以降の現代曲においても、きわめてロマンチックにエモーショナルであるという点で統一されている。この統一感こそが、プログラム全体を違和感なくまとめているポイントだ。とくに古典的なフォームのもとに書かれたテレマンの音楽が、無伴奏ゆえにもともとある程度の自由度はあるとはいえ和声から必然的に要求されるフレーズ構造をも飛び越えて自由に浮遊する面白さは格別だ。後半になればなるほどその熱量は増し、パユの出す音はますます雄弁に「語り」はじめる。それはフルートのリサイタルを聞いているとういうよりも、身体能力にたけたひとりの俳優が見せるコンテンポラリーな一人芝居を見ているような印象を受ける。

アンコールのラスト、ドビュッシーの「シランクス」もまた印象に残る素敵な名演。

 

この75分は前述のように休憩もなく一気に演奏されたのだが、ここでひとつ残念なことがあった。一曲目が終わったとき、会場の誰からも拍手は起きなかった。客席のあいだにも、またステージのパユにも探るような空気が一瞬あったのだが、そこで「今夜のプログラムは曲が終わるたびに拍手はしない」という暗黙の了解ともいうべき空気が共有されたのだ。それはこの夜のプログラムにはこのうえなくふさわしいことのように思われた。

だが、何曲目かのテレマンが演奏されたそのあと、一部の客席からなかば無理やりのように拍手が起こったのである。それは「曲のあとに拍手が起きないのは演奏者に失礼だ」という思いがあったのかもしれない。「曲の終わりがわかりにくいから」曲を知っている誰かが率先して拍手をうながしたのかもしれない。そして次の曲ではよりおおくの聴衆が拍手をした。パユは一瞬戸惑いながらも控えめにこたえたのだが、そのあとの演奏の入り方を見ても彼が拍手で遮られることなく曲をラストまでつづけて演奏するつもりになっていたことはあきらかだ。その違和感はやがて伝播し、次の曲からは幸いなことに拍手のないスタイルが取り戻された。

コンサートのスタイルも、それを聴くスタイルもさまざまだ。独特な構成のステージには、それにあわせた聴きかたもまたあるように思う。なにが正しい聴きかたかなどと言うつもりもないし、そんなものはアプリオリに存在しない。しかし、この夜のコンサートで客席とステージのあいだで自然につくりあげられていった「この夜のコンサートのありかた」というものに、会場の誰もがもっと敏感であってほしかったというのが正直な気持ちだ。曲が終わったあとに拍手が必要だなどという画一的なルールなど存在しない。その場にあたらしくうまれるものを尊重し、それにニュートラルに耳を傾けるというありかた。それこそがナマの演奏をコンサートホールという場で共有する醍醐味ではなかったか。それはけっしてCDを聴くだけでは味わえない喜びなのだ。