黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十一月吉例顔見世大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

いよいよあたらしい團十郎が誕生する。十一月の歌舞伎座は十三代目市川團十郎襲名披露興行のひと月目である。コロナウィルス感染拡大の影響により延期されていた襲名が、このように無事にとりおこなわれたことをまずは祝いたい。

 

『矢の根』は松本幸四郎の曾我五郎。さすがにこの役はニンが違うだろうと思いのほか、たっぷりした鷹揚さがあってなかなかスケールおおきく演じている。しかしセリフがはじまると発声的に無理をしていていたいたしい。あのままでは千秋楽まで声がもたないだろう。荒事の骨法はそこにはないはず。亡くなった三津五郎を最後に、本格の『矢の根』はなかなか見られない。

曽我十郎は坂東巳之助。やわらかさを出そうとしているが、研究熱心な舞台を見せるこの人にしてはものたりない。そのやわらかさは「五郎の夢」にあらわれたという妖しさにつながるべき。衰弱した入院患者のリアルとはまたちがう。巳之助はこの演目では曽我五郎こそが本役であろうから、いつかぜひとも見てみたい。

大薩摩文太夫は大谷友右衛門。馬士畠右衛門は中村吉之丞。

大薩摩がなかなか特筆もの。現在では長唄が担当するが、今日の杵屋三美郎の声には近年聞いたことがない力強さがあった。これでこそ荒事だろう。

 

「口上」は團十郎・新之助のほかには幹部役者が五人というもの。とかく大人数がならぶ口上がおおいなか、このシンプルさにはおおいに賛成したい。ただし内容はややグダグダ。そんななかにあって、今月の出演はこの口上のみという松本白鸚が飛び抜けて立派。その格調高い挨拶はまさにひとつの芸といってよく、近年稀に見る卓越したものだ。

最後に吉例にならって團十郎が「にらみ」を見せて幕。團十郎のみ裃の柿色が微妙にことなるのが気になる。

 

『助六』の助六はその新・市川團十郎。新之助時代の初役はもちろん、海老蔵襲名以降もなんども演じてきた役である。前々回であったかセリフがおそろしく現代調になり、作品そのものとの違和感がぬぐえないときがあったが、前回はかなり方向性が整理されていたように思う。そして結論から言えば、團十郎襲名という舞台にはずかしくない見ごたえある助六である。

おそらく團十郎は海老蔵時代のあるときから、古典的な歌舞伎の表現と現代人の感覚とのギャップに悩みはじめたように思われる。勘三郎が、吉右衛門が、そして仁左衛門がそれぞれのやりかたで埋めようと工夫をしたものとおなじギャップだ。いまの時点で海老蔵の試行錯誤はすべて成功しているわけではない。たとえば先々月に上演された「七段目」の平右衛門などは目を覆わんばかりの失態だろう。しかし「すくなくとも」この助六にかんしていえば、十一代目とも十二代目ともことなる令和時代のスタンダードといってさしつかえない完成度をみせている。

花道の出端がまず秀逸だ。七三での見返りのスケールのおおきさ。「この鉢巻のご不審か」ににじむ色気。そのまま左手に傘を持ち、膝を折って身をかがめた姿の時間の止まったような美しさ。踊るようで踊らず、ゆったりとしたやわらかさのなかに突如としてあらわれるぶっきらぼうなまでの豪快さ。その絶妙なバランスに目を奪われる。海老蔵のたぐいまれなる身体能力なしにはなしえない芸だろう。それはある意味でスタイルやジャンルを超越していると言ってもよい。

舞台へ出ての煙管のセリフ、意休とのやりとりはあざやか。そのセリフはときにテンポよく、ときにたっぷりと。けっして現代調などではない。十二代目が十二代目らしい鷹揚なセリフをみずからのスタイルとして確立したように、十三代目の助六のスタイルとして確立されたのだろう。不明確な言葉はひとつもないし、意味もよくとおっている。その証拠に、反応からするとおそらくはじめて『助六』を観たであろう観客にもちゃんと伝わっていている。そしてその曖昧さのない芝居が、現代的なリアルを生んでいるのである。この狂言はその幕開きに「なにぶん古風な狂言でござりますれば、なにとぞ鷹揚なるご見物のほどを」と口上があるが、ちゃんと現代人にもつうじる演劇として成立しているのである。

意休にむかっての「おしかつんぼか」のセリフはカット。それに後半にある股くぐり侍の聾唖者の芝居も、段取りはおなじながら別の芝居におきかえられている。それがたんなる言葉狩りの結果でないことは、のちの場面ではそれらの言葉を言っていることからもわかる。セリフのリズムとして必要な部分はのこし、必然性のない部分については変更がくわえられたのだろう。それこそ市川宗家にしかできない改変。今日のやりかたのほうが面白かったので、これが定着すればよいと思われた。

揚巻を演じるのは尾上菊之助。おそらく東京でははじめてではないだろうか。このところ立役を中心に演じていることもあり、揚巻にふさわしい芯のあるしっかりした立女形になっているのがよい。だがこの揚巻には決定的にないものがある。吉原という世界のもつ空気感である。同僚の花魁がずいぶん酔っているようだと指摘する花道の出も、とてもそうは見えないだろう。そうじてこの揚巻は真面目すぎるのだ。意休とのやりとりも本気で怒っているように見えるが、これは本当は花街のおとなの「遊び」でもあるのだ。そういう意味では白玉を演じる中村梅枝のほうが、その廓のリアリティがあってよい。

髭の意休は尾上松緑。この役を演じるにはいささか若いが、じつにていねいに演じていて意外なほどの好演。ひくくおさえた声のつかいかたがよく、セリフでじっくりと聞かせられる意休。菊之助とおなじく松緑もおとなの余裕にかけるところもあるが、今後くりかえし演じていくなかでそれもかわっていくのだろう。まだ若いころ「三之助」(辰之助・新之助・菊之助)といわれた彼らが、節目となる舞台でひさびさに共演して芸を競っているのが感慨深い。

白酒売は中村梅玉。やわらかさと軽妙さの奇跡的なバランスを成立させた名人芸。ひと世代ちがうことを感じさせないほど、團十郎とスタイルがみごとにかみあっている。これほど軽妙でありながらけっして品を失わないのはさすがとしか言いようがない。

くわんぺら門兵衛に片岡仁左衛門、朝顔仙平に中村又五郎というベテランがでて豪華にしめる。福山のかつぎは新・市川新之助。年齢のわりに度胸のすわった芝居を見せておおいにうけている。