夜の部は『義経千本桜』の半通し。絶品である片岡仁左衛門の「鮓屋」と、襲名公演ですばらしい成果を見せた松緑のひさびさの「四の切」である。
「木の実」から。なんども目にした仁左衛門の権太は、これまで以上にリアルな演じ方。小金吾へのいいがかりは、嫌味はしっかり出しながら、サラリとしている。冷静に考えれてみれば、この場にいる小金吾にしても若葉の内侍にしても、権太が「嘘をついている」ことは明白だ。それでもわざわざ権太が自分の嘘をまことしやかに言いたてるのは、フィクションゆえの道具立てなわけだ。仁左衛門演じる権太は、その虚構性をわかっていながら、まるで紋切り型のセリフをつらねるような逆説的なリアルさがあるのである。それはヤクザの言う無理難題にひとしく、理屈で対抗しようとする小金吾の戦意をくじく。じつに面白い権太だ。息子の手を取って「冷たい手だ」というのも、ことさら強調する江戸のやり方とことなりもともとあっさりしているが、今回はほとんど捨て台詞のごとくひびき、まことにリアルさが徹底している。
片岡千之助の小金吾は、声こそおちついてきてセリフもうまくなっているが、歩き方ひとつとっても腰が定まらず不安定に見える。「小金吾討死」での立ち廻りにちょっと変わったところがあって面白い。
女房小せんは上村吉弥。亡き秀太郎のような愛嬌はないが、さらりとこちらもリアルで仁左衛門とは似合っている。若葉の内侍は片岡孝太郎。
「鮓屋」はなかなかみごたえあり。最初の権太の出が下手袖からなのは、なんとももったいないがどういう意図なのか。鮓桶の取り違えのトリックが一般的な型より合理的ですっきりしているのはいつもの仁左衛門流。この仁左衛門の権太はあいかわらず傑作だが、これまで以上につよく感じたのは、この時代物の名作を現代人にリアリティを感じさせることのできる家族のドラマにしあげていることだ。
家族のドラマを強調するポイントはいくつもあるが、仁左衛門らしいのは肚割りをおそれずに首実検の場面からしばしばみずからの家族を身替りに差し出す苦悩が見え隠れすること。それでも仁左衛門のうまいのは、ものがたりを知らない観客にとってはネタバレにならないギリギリの線を攻めていることだ。この首実検の場面で本火の松明をつかうのも上方にある独特のやり方。権太が「煙たいなぁ」ととぼけながらこぼれる涙を隠すのは、いつもながら見事としか言いようがない。ただし、以前はこの松明は梶原平三ご一行の出とともに持って出ていたと思うが、今回は首実検にあわせてあとから出している。もろもろ事情があるのかもしれないが、これでは権太に「煙たいなぁ」と言わせるために取ってつけたようにも見えて損だろう。
現代的な家族愛をかんじさせるふたつめのポイントは、手負いになってからの父・弥左衛門とのからみかたである。権太がここまで弥左衛門にとりすがることがあっただろうか。また弥左衛門がここまで権太をなんどもその腕に抱きよせることがあっただろうか。時代を考えれば、その表現は過剰かもしれない。しかしそこにはたしかに、父に認めてもらいたいひとりの「子供」がいた。許すものと許されるもののドラマ。『義経千本桜』はその全体をとおしていくつもの「家族」をえがいている作品だが、そこにまたひとつ現代的な意味が付加された意義はすくなくない。
中村錦之助の維盛弥助も、これまた傑作。花道を出たところから身体のつかいかたがうまく、柔らかさを出しながらサラサラしていないのがよい。弥左衛門に「まず」と呼び止められ弥助から維盛への変わりかたもたくみで、たちどまったその瞬間に右の膝をまげてぐっと身体を落とし、そののちすっと身を起こす。そのあざやかさは類を見ない。後半も傑出しいて、平重盛の嫡男としての風格があるのがよい。しばしば弱々しすぎる維盛を見るといささか愚かで頼りなく見えてしまい、なぜこの男のために犠牲になったのかと思ってしまうが、錦之助の場合それがまったくない。大当たりといってよい。
弥左衛門は中村歌六。ことのほか「強さ」をもったすばらしい弥左衛門で、セリフの手強さとあわせてこの場の重しになっている。権太の妹・お里は中村壱太郎。黄八丈の似合う娘のかわいらしさと可憐さを存分に出しながら、丸本物らしいしっとりとした味わいがあってすばらしい。「お月さんも」はひさびさにセリフのうまさに聞きほれるお里に出会った気がした。中村梅花の母・お米も仁左衛門のつくるリアルさにふさわしいうまさ。梶原平三をどっしりと演じるのは坂東弥十郎。
脇役にいたるまで、仁左衛門のつくる方向性が透徹した、みごとなアンサンブル。妥協もマンネリも衰えも知らない松嶋屋の、つぎの舞台がまた楽しみになった。
「四の切」はやや低調。この数年で芝居も発声もいちじるしく進化した尾上松緑だけにおおいに楽しみだった忠信だが、いささか期待を裏切られた。することはしっかりしており、前半の本物の忠信の時代物らしいきっぱりとした演じかたには説得力もある。だが全体にたっぷりしすぎて間のびしすぎている印象はいなめない。後半の狐言葉はなんともきまらないし、なんといっても動きがもっさりしすぎだろう。さぞ研究をかさねてのぞんだであろう襲名時のあの熱量あふれる忠信はどこへいったのか。いまの松緑の実力なら、もっともっとふみこんだ舞台を期待したい。
目をひくのが中村魁春の静御前。意外なことに本興行では初めてとのこと。いまとなっては貴重とも言える、一昔前の典型的な赤姫の姿を見るようで安心する。中村時蔵の義経はセリフがしばしば急いて落ち着きがなく、御大将の格に欠ける。めずらしく立ち居もふらついていたが、体調がすぐれないのかと心配になる。川連法眼は中村東蔵で、前回演じたときにも思ったがあまりに役違いで気の毒。しかも今回は花道からわざわざ出るという、これまた気の毒の上塗り。