黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

ダフ屋行為はそもそも「悪」なのか

 

「コンサートなどのチケットの高額転売問題で、超党派のチケット高額転売問題対策議連が28日、インターネット上も含めた「ダフ屋行為」を禁止する法案をまとめた。来春にもチケット販売が始まる2020年東京五輪・パラリンピックを念頭に、今国会での成立を目指す。各党での手続きを経て、来週にも国会に議員立法として提案する」

(Yahoo!ヘッドライン「朝日新聞デジタル」より)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180628-00000058-asahi-musi

 

これまではダフ屋行為を禁止する法律があったわけではなく、都道府県の条例によって規制されていた。それを、ネットオークションなどでの転売規制などをも含めた法律を新たに制定しようという動きである。

一般にダフ屋行為というと、不正な利益を得ている、本当にチケットを入手したい人が買えなくなる、暴力団の資金源になるなどといった問題があるとされる。しかし、本当にダフ屋は「悪いこと」なのだろうか。

 

まず、チケットを転売することで得られる利益が不正なものだと決めつけるのはいささか早急だ。その公演・試合を観ることができるという価値は需要と供給のバランスの中で値付けされるわけで、本来絶対なものではない。チケットはひとつの「商品」なのであって、すでに絶版になった古本が希少価値をもって高値で取引されるのとなんら変わりはない。また、その「商品」を購入する動機がその公演・試合を観たいということか、それとも値上がりへの期待なのか、それは購入者の自由なのではないか。チケットの転売で得られる利益が不正となれば、不動産やワインへの投資で得られる利益も不正ということになってしまう。

また、本当に観たい人がチケットを入手できないというのもおかしな話だ。5,000円のチケットがネットオークションで10,000円の売買されるのは、そのチケットが10,000円の価値があるからだ。市場で10,000円の価値があるものを5,000円で入手できたということがそもそもいびつなのであって、これはそもそも興行者サイドの値付けミスの問題だ。間違って値付けされた価格を基準に考えるから、10,000円で売るダフ屋の利益が不正に見えてしまう。本当に観たいのであれば、10,000 円を払ってチケットを入手するべきなのだ。

この興行者サイドの値付けミスのさまざまな「キモチ」の問題と関係している。チケットの売れ残りを心配して安全な価格設定をしてしまう場合。会場が売り切れ満員になるという満足感。売り切れであるということのステイタス。しかし、「キモチ」を優先するか利益を優先するかは興行者の選択であり、「キモチ」をとった場合に本来得られるはずの利益を転売者が得ることになっても文句を云う筋合いはない。適正な価格設定がなされるようになれば、転売の利ざやも少なくなり、暴力団の資金源になるということも自ずと減っていくはずだ。(もちろんこれは単純化して云っているのであって、様々な圧力がそうさせない場合もあることは否めないが)

そう考えた場合、転売市場は、本来の価値に見合った適正な価格設定をあぶりだすという役割を果たす可能性もあるように思える。頑張ってお金をため無理をしてでも観に行きたい人(つまりある意味で「本当に行きたい人)がチケットを入手できるシステムということも云える。ダフ屋行為は単純な「悪」などではなく、ごく普通の商取引のひとつと云えるのではないだろうか。

いったん入手したものの、都合が悪くなり無駄になってしまうチケットも、チケットぴあが取り入れているリセールなどのシステムがもっと拡がれば、という身近な解決策もある。ただその際にも、定価にこだわることなく、オークション形式などでその時々での適正価格で売買されることがあってもよいはずだ。つまり興行者公認のダフ屋がいる可能性もあるということだ。

 

記事にもあるように、今回の議員立法の視線の先には2020年の東京オリンピックがある。その壮絶なチケット争奪戦が予想される開会式をはじめ、様々な対策が検討されるべきことは論を待たない。だがその問題の根本はダフ屋やネットオークションの転売にあるわけではなく、不適切な価格設定にあることを考えなければならない。

一部の富裕層だけではなく、たくさんの人が観られるということはもちろん大事なことだ。しかし、もともとチケットの数は有限なものではあるし、観たいけど観られない人が圧倒的に存在するという事実は結局のところ変わらない。開会式のチケットの最高ランクが1000万円であってもおそらく買い手はつくだろうし、最低ランクが5万円でも売り切れるかもしれない。しかし、それが庶民を締め出すことになるのだろうか。適切な価格設定ではない安価な席を用意したとして、そこで本来主催者が得るはずであった利益が失われるわけであり、その穴埋めには結局のところ税金が投入されるというのに。

 

演劇好きなサラリーマンが、ある有名劇団の公演を仕事帰りに観に行こうと思いたち、当日券目当てに会場に足を運ぶ。しかしチケットはすでに売り切れており、会場近くには額面の倍の値段で売っているダフ屋がいる。どうしても見たいならその人はダフ屋からチケットを入手するかもしれない。それとも、その日当日券を買うつもりでいた5,000円で、近くの別の小劇場でやっている公演を観るかもしれない。いまはまだ人気のない無名の劇団のチケットが一枚売れ、新しいファンを生み出すことにつながるかもしれない。

チケットの適切な価格設定は、オルタナティブな可能性をも生みだすかもしれないのだ。