黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

四月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

四月歌舞伎座夜の部は、先月の由良之助につづいて出演する片岡仁左衛門の六助、尾上右近の『鏡獅子』、尾上松緑とその一座による講談シリーズ最新作の初演など見どころ満載である。

 

『彦山権現誓助剱』はいつもの「毛谷村」だけではなく、その前の「杉坂墓所」から。たまに上演されることもあって、つづく「毛谷村」がわかりやすくなるというのはおおきなメリット。とは言え状況説明のための幕で役者もしどころがあまりない場面だが、それが予想に反して面白かった。それは六助という役の素朴さやひとのよさといった人間味を、仁左衛門がていねいに演じているからにほかならない。六助が花道から出ただけで劇場にひろがる明るさは、やはり仁左衛門ならではのもの。微塵弾正に八百長を持ちかけられて、さらりと「負けましょう」という屈託のなさ。いっさいがリアルに運ばれていく芝居の自然さ。それらは仁左衛門が六助という役の性根をつかんだそのうえで、気持ちだけで演じているからこそ醸しだされるものだろう。それにしても、微塵弾正たちが下手から出て下手へ入る動線の愚は、いつかどうにかならないものか。

「毛谷村」の場になる。前の場があることによって、六助と微塵弾正の立ち合いも、その意味するところがよくわかる。眉間を割られる想定外の仕打ちも、タネがわかっていればより弾正の理不尽さが明確になる。微塵弾正を見送ったあと、親孝行することへの想いを語る六助への共感が深まるのも、やはり「杉坂墓所」でのひとコマがあってこそだ。仁左衛門の自然さといえばこの場もおなじで、お園を相手に受けている芝居のよさが、なにをするわけでもないのにきわだっている。後段になり運ばれてきた斧右衛門の母の死骸を見て「これが斧右衛門の母か」と言い、向こうを見てハッと真実に気がつくのも、ただイキだけで見せるうまさ。斧右衛門の嘆きに耳を傾ける、右足をおおきく出したその姿が見事。その顔をあげて「さては」という怒りへの変貌も、気持ちだけでつながれていく。そんな気持ち本位で身体が勝手に動くという仁左衛門流の奇跡も、年齢を感じさせない声と身体の自在さゆえだろう。芸が磨かれたころには身体が衰えているという、これまでの伝統芸能の常識がこの役者には通用しないのだろうか。

お園はなんども演じている片岡孝太郎。干された小袖を見ての「どうやら覚えのある小袖」のセリフがまずうまい。前半の手強さはやや力んでいるように見えるが、六助の正体を知ってデレてからがコッテリとしていてよい。六助が不審がるのも無理ないくらい、異様と言ってもよいその過剰さが上方らしい。六助に一味斎の安否を聞かれたとたんに、ハッと顔をそむけるそのさり気なさもうまい。

微塵弾正は中村歌六。もったいない配役だが、そのおかげで見ごたえのある役になっている。歌六がよいのは立ち合いが終わってからの古怪さ。見聞役に「見違えた」と言わせるだけの凄みがあり、のちに敵役として立ちはだかるだけのおおきさがありさすが。

いつもながら葵太夫、宏太郎の竹本が充実して耳が幸せになる。

 

『鏡獅子』は尾上右近の弥生。自主公演では経験しているが、本興行でははじめて。音羽屋にとってきわめて重要な演目で、翌月に菊五郎襲名興行を控えたなかにおいて、六代目菊五郎の血をひく右近にとっても意義ある一幕と言えるだろう。

結果は期待をおおきくうわまわる必見の『鏡獅子』になった。弥生という役のもつ中性性が、これほどまでに現代的な水準で表現されたことがあっただろうか。女形でありながら立役である(獅子のことではなく、前シテの弥生のなかにある立役的要素のことである)という中性性。歌舞伎舞踊でありながら能がかっている中性性。日舞でありながらコンテンポラリーダンスとしても一流であるという中性性。いっけんしなやかな女形であるそのなかに剛なる力強さをもった右近の身体は、これまで見たことないほど見事にラベルを剥がされた「入れ物」になっている。その「空虚さ」が、獅子に取り憑かれる(または弥生の身体が獅子を必然として求めると言ってもよい)ことの必然につながるのは言うまでもない。現在目にすることのできる最高の『鏡獅子』が生まれたというのは言いすぎだろうか。後ジテの獅子もさすがのキレのよさ。近年よくあるように毛振りを勢いにまかせることなく、美しく正確無比に見せるのもさすがである。

胡蝶の精は、坂東亀三郎と尾上眞秀。いずれもちいさなミスはあれど大健闘。なかでも眞秀の身体のしなやかさ、膝の使い方の柔らかさは見事で、将来がますます楽しみだ。

勝四郎・巳太郎はじめとして長唄三味線、鳴物の集中力ある音楽も聴きごたえあり。

 

『無筆の出世』は前述のとおりこの数年、松緑が取り組んでいる神田松鯉の講談をもとにした新作もののひとつ。前回、前々回は忠臣蔵外伝的なものがたりであったが、今回はまた世界が違い読み書きができない中間・治助の人情味あふれる出世噺。そして神田松鯉も講談師として登場し舞台に花を添えている。

あやうく試し斬りの犠牲になりかけた治助が、おおくの人々との縁と本人の努力により勘定奉行までのぼりつめ、かつて自分を死なせようとした旧主・与左衛門とふたたび会ったとき……。だれもが予習なしに楽しめ、かつ歌舞伎としてのスタイルとテイストを尊重してつくられる今シリーズに、またあらたな作品が加わったことをまずは歓迎したい。講談師の語りにあわせて役者が動くというアイディアも、あたらしいようでじつは人形浄瑠璃と縁の深い歌舞伎らしいもの。シンプルながら効果的に使われる照明もまたよい。

ただ、よい新作とは役者を替えて再演されつづけるものでなくてはならない。だからこそ、再演にあたっては台本上の課題をクリアしてほしい。神田松鯉の語りはもちろん初演にあたっては豪華なごちそうだが、序幕の舞台の混雑ぶり(くわえて大道具や黒紗幕の使い方が効果的ではない)や幕切れのあっけないほどの芝意味のうすさなどを考えると、ほかの方法に置き換えるほうがよいだろう。いま触れた序幕はあまりに雑多でめもったいなく、下船したあとから始めて治助と上人のみの場面に絞ったほうが効果的。感動を呼ぶはずの大詰の治助と佐々与左衛門のやりとりがなんども笑いを呼ぶのは、治助が「恩返しをしたい」と真意を明かす前にもう一段階サスペンスがないためだ。上演時間が八十分というのも、内容を考えたらいささか長いように思う。さらなるブラッシュアップを期待したい。

役者は脇にいたるまで好演。松緑の治助は誠実で正直者というのがニンにぴったりでよい。ただし大詰では武士らしさをだそうとしすぎて冷たく見えるのが玉に瑕。中村鴈治郎の佐々与左衛門はワンシーンのみながら下級官吏の悲哀を感じさせさすがの芝居。松緑一座常連の中村吉之丞は播磨屋らしいおおらかなセリフがよい。序幕で無防備に突っ立って見えるのは、前述のとおり台本上の改善点か。市川中車はこういう役をやらせたら、というはまり具合で説得力がある。荒五郎、玉朗といった役者が活躍できるのも、この一座の魅力のひとつといえるだろう。