黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

小田尚稔の演劇『是でいいのだ〜Es ist gut』(三鷹SCOOL)

 

小田尚稔作・演出の「是でいいのだ」二日目をを観る。出演は串尾一輝、善長まりも、橋本清、南香好、渡邊まな実。

 

舞台にはいつものごとく、電車のつり革や折りたたみ傘がぶら下がるコート掛け、ちいさな卓袱台と座布団、椅子、天井から吊り下がるランプ、などといったものが点在するだけのシンプルなもの。

ひとりないしふたりというミニマムな登場人物がモノローグを重ねていく小田作品にしては珍しく、五人の出演者によるアンサンブル。(といっても、そのうち同じ空間に存在し会話を交わすのは限られた人物のみである)そのためか、名詞や文節のあとでふっと間を取る小田作品特有の発話が(まったくではないが)なりをひそめ、リアルな会話とモノローグがシームレスにつながって進行していく面白さがある。

舞台となるのは、東日本大震災が発生した直後の東京。地震にたいするそれぞれの反応、またそこから生まれたり消えたりする関係がえがかれている。震災後の先行きの見えない不安と、人間関係や生活の漠然とした不安とが重ねあわされ、「あの日」に感じた名づけがたいあの空気感を観るものに思い出させる。

 

タイトルには、哲学者カントの臨終の言葉として伝えられる「Es ist gut」が添えられているが、劇中でも『実践理性批判』のなかの「汝の意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法をはじめとして、いくつかのカントの残した言葉が出演者によって読みあげられる。道徳は必然的に他者との関係性のなかで生きていることを前提とするが、それでもしかしカントの定言命法は相対的ものを超えた道徳率を求めるものだ。「普遍的な立法の原理」なるものがますます想定しにくくなっている現代において、誰もが正しく生きているだろうかという不安にその身をさらしている。さまざまな決定を迫られる選択強要社会では、まさにセリフで繰り返されるように「これでよかったのだろうか」とつねにつぶやきながら生きざるを得ない。

しかしひとはどうじに、選択を必要ともしない圧倒的なちからの為すおおきな波に、否応なしに呑み込まれるときがある。そしてその強制力をもったドミナントから逃れ開放されたとき、だれもがふっとつかの間の現状肯定感をいだく。「これでいいのだ」と。今回の作品のタイトルでは「これ」に「是」という感じをあてているが、「是」そのものがすでに「それでよい」と受け入れられたものだ。それでよいものはよい、というトートロジー。五人の登場人物のなかでただひとり「あの日」の「あの時間」にとどまり歩き続けた女が、ラストシーンで母親とようやく電話がつながり「よかった」とつぶやき幕は閉じられる。

 

不安にみちあふれたわたしたちの世界には、それでもなお「Es ist gut」としか云えない瞬間がある。

 

 

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