黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

團菊祭五月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

令和に元号がかわってはじめての歌舞伎座。五月の歌舞伎座はいわゆる「團菊祭」と銘打たれた公演だが、この数年は團菊にとっての重要なレパートリーを次世代の團菊に受け継いでいくさまを目のあたりにすることができる。昼の部は、若手中心の『対面』、次世代の『勧進帳』、ベテラン中心の『め組』というラインナップ。

 

『寿曽我対面』は萬太郎、梅枝、歌昇、尾上右近、米吉と、さながら菊五郎劇団と吉右衛門劇団の若手見本市。

松緑の演じる工藤佑経は風格はともあれ、障子越しに聞かせる第一声からして安定して、さすがに若手らの先輩格として舞台をしめる。盃をとらせる場面で十郎や五郎を見つめるそのかたちがやや気が抜けて見えるのは残念。

萬太郎の曽我五郎は小柄ながら勢いよく演じているが、かたちはきまらず声も上滑りしていて、万事が荒事のそれではない。ニンがちがうとはいえ二度目の五郎、指導する先達の責任でもあるだろう。対して曽我十郎を演じる梅枝、まずは誰よりもふさわしいそのニンが生きて、ひときわ安定感がある。ただ、梅枝ほどの役者であれば、もうひとつ十郎らしいやわらかさや色気があればとも思わせた。

歌昇の小林朝比奈はていねいでありながら、道化役らしいおかしみとぐっと突っ込んだ力強さがあってよい。大磯の虎の尾上右近は近年の伸び悩みを払拭するかのような上出来。

出番はわずかだが坂東亀蔵の鬼王新左衛門が目をひく。すっきりとしたセリフもさることながら、新左衛門自身が「陪臣の身でありながら」というように、舞台でひかえるいどころが誰よりもよく、さすが理論家十七世市村羽左衛門の孫というところ。

 

『勧進帳』は海老蔵、菊之助そして松緑の三人。かつて新之助、菊之助、辰之助時代、その親世代と同様に「三之助」といわれしばしば共演を重ねた三人だが、彼らが顔をそろえることは最近では珍しい。

海老蔵の弁慶はこれまでもなんども演じているが、一年後の團十郎襲名をひかえておそらくは海老蔵時代最後の弁慶になるだろう。それがいままでとはずいぶん変わっていて、独特といえば独特だが、あまりに逸脱しているように思われる。これまでの海老蔵の弁慶は、安宅の関をなんとしても越えなければならないという力強い緊張感に始終満ちていた。それが今回はどうもかんたんに関を越えられるとたかをくくっているように見える。おおくの弁慶役者とおなじく勧進帳を読みあげたのち帰ろうとすることもそうだが、花道での出端の長ゼリフや、「その切ったる山伏首は判官殿か」といった啖呵、本来なら鬼気迫るやりとりのはずの山伏問答など、この弁慶は口先三寸で言い負かせると思っているふしがある。とかく過剰に顔(とくに眉)で内面を表現しようとすることも、弁慶を軽く見せるのを助長している。富樫によって義経が呼び止められ正体が知れたかという場面になってようやく危機感をおぼえる弁慶。それはそれでドラマとしては面白い解釈ではあるが、山伏問答など前半のドラマはすべて絵空事になりはしないか。もう一点、弁慶の顔が異様に黒く見え、これもリアルを追求しての選択かもしれないが、なんともきたなく見える。

しかし、富樫にすすめられるままに酒を呑み、肴に舞おうかという場面になると、ぐっと面白くなる。この弁慶は酔ったふりをしているのではない。心底から酔っている。そのうえでぎりぎりの危うさのなかで、荒々しく舞うそのリアリティ。松葉目物の格はないにしても『勧進帳』のあたらしい可能性は感じさせる。そして幕外ではこれまでの海老蔵と同様に、飛び六方で揚幕に入るまで、ひとときも切れることのない義経への意識があり、異様な集中力に引き込まれる。それを眼にしてようやく溜飲がおりる。

松緑の富樫は口跡のあざやかさはないが、ていねいなセリフに好感が持てる。「とまれとこそ」で太刀に手をかけるかたちが美しくきまるが、「早まりたもうな」から一行を見逃す決意を見せる場面はいささか慌てていてすべってしまうのが残念。幕切れは目を閉じ天を仰ぐのが初日ゆえかタイミングが遅れている。

菊之助は折り目正しいお手本のような義経。ドラマから超越したあり方がかえって御大将らしい。「判官御手」は身体を低くしすぎず上からさり気なく手を差し伸べるかたち。ややさらりとしすぎているようにも感じられ、演技過剰ぎみの海老蔵とのバランスもあってかやや情けが薄く見えてしまう。

長唄は日吉小間蔵と杵屋勝四郎のツートップ。ゆえに長唄三味線のならびが面白いことになっていた。

 

『め組の喧嘩』はこれぞ菊五郎劇団のお家芸ともいうべき作品。

菊五郎の辰五郎は手に入った役をさらりと演じているが、序幕でみせる貫禄はさすが。三幕目の辰五郎内での水盃、わが子・又八との別れ(又八役の亀三郎の芝居がしっかりしていることもある)も、なんということはない芝居のなかで観るものをひきつける。

時蔵のお仲は初日ゆえセリフのテンポが悪いところもあるが、きっぱりとした江戸の女房。左團次の四ツ車はさすがに芝居がおおきくはまり役。喜三郎の歌六、九竜山の又五郎、おくらの雀右衛門、亀右衛門の権十郎、文次の彦三郎と、ワキに人を得てよいアンサンブル。次にこの演目をやるときはもしかしたら辰五郎デビューになるかもしれない菊之助は藤松を。立役にレパートリーを広げるなか、だんだんと線の太さが出てきて、来たるべき時が楽しみになるが、やはりこれも情がうすく見える。

大詰は名題下役者大活躍の場面、理屈抜きに楽しめた。だが立ち回りが見せ場の作品がいくつもあるなか、相撲取りと火消しの喧嘩というだけではもはや見せ場にはならないだろう。なにかの機会に立ち回りの演出を一新してもよいのではないだろうか。

 

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