黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

寿初春大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

 

年が明けた歌舞伎座は、先月までの四部制をあらため三部制となった。それぞれ短い休憩をはさんで二演目づつ。第二部の初日を観る。

 

『夕霧名残の正月』が意外といっては失礼ながらなかなかのよい舞台である。

ひとつには、昨年十一月に亡くなったばかりの坂田藤十郎を偲んでと銘打たれているが、それが夕霧の四十九日という作品の設定にそのままかさなり感動的だということ。終盤に入れ事として山城屋の業績を偲ぶセリフがさりげなく挿入されるが、それがなかったとしても、亡くなった夕霧を思う伊左衛門のこころと、偉大な父を失った舞台上の鴈治郎・扇雀のふたりの思い、そして不世出の名優をなつかしむ観客の気持ちが、おのずとつながらざるをえない。

もうひとつは、鴈治郎と扇雀のふたりがこれまでにくらべ格段によい芸をみせてくれたこと。もちろん、それぞれ風情のあるやわらかさという意味ではものたりないのはたしかだが、きわめてていねいなその芝居と踊りにはひきこまれた。

そのなかでも、特筆すべきは鴈治郎の声である。リアルな要素のつよい上方狂言において、鴈治郎はかねてよりドラマ的な要素をきちんと読み込み表現する能力には長けていた。しかしそこには、上方和事に必要なやわらかく糸を引くような独特の声の技術が欠けてたように思われる。それが鴈治郎襲名以来しだいに変化をみせていたのだが、今月の伊左衛門において、レヴェルそのものがおおきく進化したようだ。いまこそこのひとで『封印切』や『河庄』を観たい。なによりの藤十郎への供養になった。

 

『七段目』は時間の制約もあってか大幅なカットヴァージョン。鷺坂伴内と斧九太夫のやりとりからはじまるというかなり思い切ったカットで、これまでにも人員削減のために地方巡業などでしばしばおこなわれているが、歌舞伎座の本興行ではさすがに残念と言わざるをえない。

しかしそれでも観てよかったと思わせたのは中村梅玉の平右衛門。そもそも梅玉にとってはニンがちがう役のはずだが、ほかの役者とはまったくことなる、それでいてきわめて説得力ある平右衛門になっている。ここには無骨な力強さも、まっすぐな忠義もない。ずいぶんと世話めいた役づくりに最初は戸惑ったが、小身者の足軽としての庶民さ、軽さを感じさせ、しだいにそのリアリティが腑に落ちてくる。そのベースが世話なので、いつもはダレてしまう花道でのじゃれつくやりとり(もちろん文楽にはない歌舞伎だけの入れ事)にも、いっさいの不自然さがない。妹のお軽にたいして父・与市兵衛や夫・勘平の死を伝える場面も、セリフはそのままながらまったくべつの芝居を見ているようだ。「勘平はやっぱり勘平だ」や「あとにはどえれえのが控えている」なども笑いをさそうどころか、ふたりのやりとりの切実さを増幅させることに一役買う。そして「腹を切つて死んだわやい」でずばりときめる見事さ。

お軽は中村雀右衛門。もともと世話女房めくこのひとのお軽も、今回はやや重心がさがりおちついた印象をうける。梅玉の平右衛門ともよくテイストがあっているようで、恋人ではなくきちんと兄妹に見える。ひとつ残念なのは、夫・勘平の死を聞かされおもわずハッとなるところで、揚幕のほうを見ないこと。クドキのあいだも正面を向きすぎていささか平板に見える。その視線の角度がつくりだす「ここ」と「そこ」の空間的なひろがりは歌舞伎ならではのものだが、それがないためにお軽のドラマにひろがりを欠く。

中村吉右衛門の由良之助は、もとよりなんども演じて手に入った役。しかし今回はやや息があがり気味で落ち着かない。前述のとおり前半がおおきくカットされたこともあってずいぶんと印象がうすいのが残念。上演しているうちに調子が戻るとよいのだが。

橘三郎の九太夫、吉之丞の伴内は芝居がていねいでよいが、カットしてるためにほとんどが脈絡のないセリフになってしまい、なんとももったいなくて気の毒だ。

 

 

 

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