歌舞伎座第三部の『ぢいさんばあさん』が「珠玉の」という言葉のふさわしい傑作である。派手ではないがよくできた戯曲で、いわゆる新歌舞伎とよばれるジャンルの作品のなかでは比較的よく上演される。しかし役者によってこうも印象がかわるものかとあらためて思うほど、今月の片岡仁左衛門と坂東玉三郎の舞台は感動的だ。
仁左衛門の美濃部伊織と玉三郎の妻・るんは、まず序幕でその若さに驚かされる。それが芝居でつくられた若さではなく、なんとも端的に若いのだ。やがて失われるそのほほえましいまでに甘い時間が失われることを思うと、その目に焼きつくような美しさそのものがドラマを立体的なものにしている。序幕の幕切れ、るんが部屋のなかで手に抱いた赤子に向かって夫が明日からいなくなるという事実を聞かせる。伊織は庭に下り桜の木にむかってしばらくのお別れだと言う。ことなる対象へむけて言葉をかけながらじつはたがいに聞かせているという、序幕のクライマックスとなる場面。その先の展開を知らなくても胸をうつ。ひとつ気になるのは筋書きのインタヴューでも仁左衛門が語っているように、伊織は若いころは短気だったがるんのおかげでそれが治ったという設定を入れていること。もちろんそれは、伊織の現在の穏やかさはるんのおかげであり、るんと離れてしまったがゆえに悲劇を引き起こしたのだという解釈なのだろう。だが、そんなことをしそうに見えない優しい男が突発的なきっかけで人を殺してしまうという、宇野信夫の書いたドラマがおおきく変わってしまうのも事実。
つづく鴨川料亭の場では、伊織の同輩らとのやりとりがまたよい。坂東秀調、河原崎権十郎、片岡亀蔵、片岡松之助というベテラン揃いだが、彼らもまた若さにあふれていて驚く。若手の役者とはまたちがう、自然な芝居のはこびが仁左衛門の伊織と素敵なアンサンブルになっている。仁左衛門の独特なのは「夢を見るか」「帰りたいか」と問われて鸚鵡に返事するその内向きなリアルさ。怒りのあまりおもわず下嶋を切ってしまい、舞台中央でひとり崩れ落ちるその姿もまたリアル指向。
別れ別れになってしまった夫婦が三十七年ぶりに再会する大詰がまたよい。前回このふたりが組んで演じたときもよかったが、やはりここまで年輪を重ねてきた役者にしか出せない空気というものがあるのだろう。ちょっと調べてみたが、一九八一年に現仁左衛門の父・十三世仁左衛門が七十七歳で伊織を、二世中村鴈治郎が七十八歳でるんを演じたのがおそらく最高齢。その舞台を見ていないので憶測でものは言えないが、序幕での今月のふたりのようなみずみずしい若さは(芸でみせることはあっても)なかったと思われる。しかし仁左衛門と玉三郎のこの奇跡的な若さと老いのギャップが、今月の舞台を比類ない傑作なものにしている。それはこの作品が、どんなにのどかなハッピーエンドをむかえたように見えたとしても、その本質は失われてしまった時間の残酷さをものがたる悲劇でもあるからだ。ひさびさに再会したふたりは、たがいの姿を目にしても相手に気がつかない。これを老いて容貌が変わってしまったからという単純なひとことでかたつけるのは乱暴だ。むかし住んでいた屋敷で余人をまじえずふたりだけで会うということは、とうぜんながら知っている。いくら約束の時間より早くやってきたと言っても、そこにいる老人が愛するひとだというのはわかって当然だ。視力が衰えたからでもない。ずいぶんはなれた位置から、夫の手癖だけで「あなた」と妻が気がつくからである。なぜふたりは二度も目が合いながらたがいに気がつかないのか。それは、それぞれの脳裏にはかつてのあの若く美しい相手のすがたが焼きつき、三十七年ものあいだまったくそれが変わらなかったからなのだ。だから、頭ではわかっていても目の前の当人と頭のなかの人物が一致しない。宇野信夫版の『瞼の母』と言ってもいい。目が合いながらよそよそしく会釈をかわすふたりの姿は笑いを生むが、これこそが止まった時間、失われた時間の残酷さをまざまざとわたしたちにつきつける。序幕の若さのリアリティと、大詰の老いのリアリティ。このふたつが奇跡的に相まって、戯曲のなかにこめられたテーマが明確にうかびあがるということにおいて、この『ぢいさんばあさん』は比類ない名舞台である。
もうひとつ忘れてはならないのは、下嶋甚右衛門を演じた中村歌六だ。この役は敵役ではない。序幕で伊織が妻にもらす「悪いやつではない。ただ、しつこいのだ」というセリフがそれを端的にあらわしている。しかし一方で、酔って悪態をつき伊織を怒らせ刃傷におよばせてしまうほどのいやらしさがなければならない。酒癖が異様に悪いというう設定だけではこの両面性を演じることがきわめてむずかしいが、それをみごとに歌六が表現している。なぜあれほど下嶋はひとから好かれない嫌な性格になったのか。卵が先か鶏が先かのような言いかただが、それはひとから嫌われているからなのである。ひとから嫌われるからこそ悪態をつく。嫌われるということが、あの下嶋という人物をつくったのである。伊織から金を貸してくれと頼まれて断らない(三十両は大金だろう)のに、それによって購入した刀のお披露目の席に自分が呼ばれないという事実が、わざわざ大酔してその席を台無しにする行為を起こさせる。歌六の下嶋を見ていると、そんな傷ついたひとりの男のリアリティを想像させる。この作品は、下嶋甚右衛門の悲劇でもあるのだ。
るんの弟・宮重久右衛門を中村隼人。充実いちじるしい最近の隼人らしいていねいな芝居。こういう新歌舞伎のジャンルには、もう数年もすればかかせない役者になるだろう。その息子夫婦は中村橋之助と片岡千之助。ことに橋之助の宮重久弥は、この役に不可欠な象徴的な若さと「気が利いて」と叔父夫婦に言わせるだけの利発さとを感じさせて好演。
休憩をはさんで、やっているようでじつは東京ではほとんど見ることがない玉三郎による『お祭り』。身体のキレがあって、こちらも年齢を感じさせない踊り。さわやかな気分で劇場をあとにした。