黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

二月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

歌舞伎座の第三部は、鶴屋南北の『霊験亀山鉾』いわゆる「亀山の仇討」の通し上演。この二十年のあいだ片岡仁左衛門の専売特許のようになっていたこの演目だが、仁左衛門が水右衛門と八郎兵衛の二役を一世一代で演じるという。その初日を観る。

 

近年はどのジャンルにおいても、悪役には悪役のバックグラウンドがあるというえがきかたをされることがおおい。『鬼滅の刃』での悪鬼たちの過剰なまでの過去語りや、ホアキン・フェニックス主演でアカデミー賞にかがやいた映画『ジョーカー』などがわかりやすい例だろう。しかし鶴屋南北のつくりだす悪人には、思い悩む内面や、悪の心がうまれてもしかたのない不幸な境遇といったものとはほとんど縁がない。そんな南北の悪の立役をやらせたとき、仁左衛門ほどうまくやれる役者はおらず、『絵本合法衢』の大学之助や『四谷怪談』の伊右衛門は仁左衛門を代表する当たり役である。

しかしながら本作の藤田水右衛門という役は、それほどまでの底深い悪というものを感じさせず、またいささかスケールもちいさく見える。仁左衛門の演じかたもあって、きわめて「ふつうの」大悪人である。大詰での俗物ぶりもまた凡庸な人物だと思わせる。ほかの南北ものにくらべて、それほど魅力的な悪人ではないいのが残念だ。そんななかでも返り討の場での殺しの凄みはさすが仁左衛門といったところだし、指を折ってみずから殺した者たちを勘定する姿はさすがの見もの(ただし大黒を振り落とすタイミングと丸かぶりで効果半減なのだが)である。端的にいえば、仁左衛門の演じる水右衛門は悪事をはたらくことを「なんとも思っていない」のではなく、じつに「楽しそう」だ。それがこの役を独特な魅力を持つものにしている。

仁左衛門の魅力がひかるのは、どちらかといえば八郎兵衛のほうだろうか。丹波屋の場での硬軟とりまぜた色男ぶりは仁左衛門ならでは。焼場の場での本水の雨を振らせての殺しは、ひとつひとつのかたちが絵のようにきまって見ごたえがある。この本水も、たとえば『名月八幡祭』の大詰におけるそれのような必然性も悲劇性もないのだが、それでもやはり絵になる。七十八という年齢をまったく感じさせない身体のキレが、雨とこのうえなくぴったりなのだ。

石井源之丞を演じる中村芝翫は、本来のニンからいえばそれこそ水右衛門がぴったりだろう。そこを身体のつかいかた、セリフのたくみさでうまく源之丞を演じている。仇討をこころざす武士としての強さと、二枚目としての色気ややわらかさをみごとに共存させて好演。中村雀右衛門が芸者おつま。芝居のはこびもうまく、すっきりとしたあじわいも雀右衛門らしい。ひとつだけ気になるのは、丹波屋で八郎兵衛のことを水右衛門だと勘違いして急にすりよる場面。これは台本上の問題もあるのでしかたがないのだろうが、変わり目が唐突であっけなく流れてしまう。もうひとつ演出上の工夫があってもよいのでは。中村鴈治郎の掛塚官兵衛は端敵としての憎らしさと軽さがあってよい。丹波屋では上村吉弥のおりきとあわせて、上方勢のかけあいの自然さが楽しい。

意外にもといってはおかしかろうが、三幕目の機屋の場が充実して見ごたえがある。まずは片岡孝太郎のお松がしっとりといい女房役。縮商人を演じる片岡松之助も、過剰になりすぎないギリギリなバランスをたもちながらセリフだけで泣かせる好演。作助の片岡市蔵、貞林尼の中村東蔵ら芝居のうまい役者たちのアンサンブルはみごと。今回も源之丞の訃報を伝えて最終的に自害するのは、オリジナルとはことなり貞林尼になっている。ここに中村芝翫が二役・袖助で出るのだが、源之丞の死を知って悲しむなかにおなじ顔の役者が唐突に出るのは違和感。

 

仁左衛門がなんども上演しつくりあげてきた作品ではあるが、台本上の弱さ(丹波屋での巧みごとの矛盾)をいくつも感じさせる。また前述のように水右衛門に鶴屋南北らしい悪の魅力が希薄なところももったいなく、傑作とはいいがたい作品だろう。しかしそれでも主役を演じる役者の魅力でここまで面白くしてしまうのはみごとというほかない。逆にいえば、一世一代と銘打った仁左衛門のあとをついで水右衛門/八郎兵衛を演じる役者は、そんな理屈抜きの魅力がもとめられるのだ。

演出面で気になったのは「だんまり」の場面での過剰な照明づくり。大黒をつかわないのはつぎの場面とかぶることを避けたのだろうが、ここまで暗闇を照明で作り込むと古典的な「だんまり」の表現方法と矛盾するように思われる。また全幕とおして雷の表現としてなんどかフラッシュがつかわれているが、これも過剰な印象をもった。通常のライトのアオリ程度ならよいが、フラッシュを多用するのは古風な狂言にはにつかわしくない。