黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

六月大歌舞伎の昼の部は『傾城反魂香』のめずらしい澤瀉屋の型での上演。

早々に花道から又平夫婦が登場し、師匠の将監と挨拶を交わすこと。先代猿之助もやらなかった、澤瀉屋につたわる古いやり方だそうだ。これにより弟弟子の修理之助が虎退治で手柄をたてるのを、又平がまさに眼の前で見せつけられることになり、その後の又平の焦りや絶望がきわだつ。またドラマの流れとしてもこのほうが自然で効果的だというのは言うまでもない。きわめてすぐれたアイディアだと思うが、修理之助と手柄をあらそって「あの私が」と声をあげるのはいただけない。物言わぬ又平がこの幕の中盤になって、吃りながら怒涛のように話しはじめる見せ場が生きないからである。

将監の妻が出ないのも面白い。そのため女中の仕事が増えるが、九十歳を超える大ベテラン市川寿猿の元気な姿が見られるのがうれしい。

 

さて、「将監閑居」から。又平は初役で演じる市川中車。前半にかぎっては残念ながらほとんどうまくいっていない。型が違えば性根がかわると言えばそれまでだが、又平という人物の偏執的な、ある意味どこか屈折した人物像がそこにはなく、妙に明るくひとのよい平凡な青年だ。それで成立していればよいよだが、後の狂乱がとってつけたように見えるのがよくない。師匠への必死の訴えも、やはり義太夫狂言の声のテクニックがないために表現が外面的で浮いている。「女房までも侮るか」があれほど悲痛に聞かせられるのであれば、もっともっとやれるように思う。葵太夫のせっかくの熱演ともからまないのがもどかしい。

しかしこの又平が、死を覚悟してからの後半はうってかわって輝きはじめる。手水鉢を見下ろした芸術家としての無心の表情がよく、また自決にあたっての静かな覚悟がなかなか。なにも特別なことをしないなかで、肚がしっかりしているのがわかる。これこそ中車の本領とも言うべきよさなのだから、再演もかさねてこなれてくればもっと全体的に気持ち本位で役が埋まってくるかもという可能性を感じさせた。幕切れの舞もいささかのぎこちなさはあっても、きっぱりとしていて見ていて気持ちよい。よくここまで仕上げたものと感心した。

女房おとくは中村壱太郎。まずだいいちにセリフがこのうえなく巧みで、はじめの「喋り」は期待したほどではなかったが、中盤以降はその糸を引くような言葉が義太夫味をおびて秀逸。見せ場である「腕も二本、指も十本ありながら」のうまさも特筆。「なぜ吃りには」に頂点をもっていくのをたくみに避け、「生まれさしゃんした」で怒涛の感情が爆発する構成の妙。筆を握りしめた又平の指をほどいていくのも、猿之助のような隙のない様式美とはことなる写実なやりかた。まさに上方の女形らしいしっとりとした芝居にこころが動かされる。

中村歌六の将監は、その手強さ、セリフのたくみさが見事。修理之助は初役で市川團子。いささか現代の青年めいてみえるが芝居はしっかりとしていてよい。

 

今回はこのあとに「又平住家」が所作事として出る。大津絵屏風からとびだすキャラクターが踊りだす楽しさはあるが、いささか蛇足の感はいなめない。そもそも前幕でだれが助けに行くかをめぐってあれほど必死なドラマがあったいうのに、救出対象である銀杏の前(中村米吉)がひとりで逃げてくるという展開が噴飯物。死を賭したあの場面はなんだったのか。また、いろいろと都合があるのだろうが、「将監閑居」を一時間半堪能したあと、三十五分の休憩をはさむのもなんだかなと思ってしまう。

どういうわけか幕切れちかくに出演者一同が手をついて口上をのべるのも不可思議に感じる。時節柄なにか謝罪や決意表明でもあるかと一瞬思わせ、さすがにそれはなくてほっとしたが、内容が「このあとの『児雷也』『扇獅子』もお楽しみくださいませ」というものでまた拍子抜け。